伝えるお仕事、ときどきインドネシア語

伝えるお仕事として、広報企画・制作・集計を出版社での経験をもとに手掛けている岡山市在住41歳。就労移行支援事業所で、特に精神障がいをお持ちの方の就職活動と伝える力をつける支援、企業へ障がい者雇用の橋渡しに携わる。大学時代にインドネシア・バリに1年間滞在、ときどきインドネシア語のお手伝いも。ヒトの成長・変化の観察レポートもときどき。

共生社会を目指すとか掲げてるんだけど、実際にはきれいに進まなくて悩むことがあって、それをなかなか言えないっていうしんどさ。

日頃悩んでいるけれど、わざわざ言わないことがある。いや、わざわざどころか、言ったらいけないと思って言わないように封印していることがある。そうやってひた隠しに隠していると、やはり悩みになっていることがある。

 

障がい者スポーツのチーム、障がい者当事者だけじゃなく、健常者もプレーヤーとして関わらなければ成り立たない、ブラインドサッカーに携わっている。

プレーヤーとして何らかの視覚障がい者が求められる。チーム内に二人いるので一応条件は満たされている。一応、と言っているのは、二人だと実はまだ少ないと思っているから。交代要員としてもっと必要なのだ。そして、主たるプレーヤーがやはり視覚障がい者であってほしいから。

 

障がいの種類について、「視覚障がい者」(身体障がい者)の他に、「知的障がい者」と「精神障がい者」がチームメイトにいる。サッカーの練習をするうえでは気にならない場面は多いとはいえ、試合参加で遠方へいくときやその他の活動をするときには何かとフォローが必要な場面が多い。それをきっと「配慮」というのかなと今更ながら気が付くことがある。

 

初めての経験である、不慣れである、理解するのに少々丁寧なアプローチが必要であるとか、何らかのフォローをすることが多い。フォローしなきゃ、ということもあれば、あーこういうことがフォローを必要とすることなのかな、と実際の場面になって気が付くことも多い。

 

これらが「障がい者」だからなのか、「初めて」「不慣れである」からなのか。分類は正直なところよくわからない。一緒に活動していて、事前に気付いて人員配置を気を付けた方がいいよなっていうこと、それなりにあるのだ。こういうことを「配慮」というのだろうか、いちいち考えてしまうのもナンセンスだけど。

 

練習以外の活動の時、メンバーの集合が、障がい者割合が高いと難しいと感じてしまうことがある。初めてのことにどのくらい適応できるか、未知数なことが多いから。経験してもらって経験値を上げたいという想いと、フォローしながらやりたいけど健常者の人数を頼らないと成り立たないなと考えることとか…。とにかく様々な思いがぐるぐるする。

 

機会を与えてもらってありがたい、けれどもこうしてバランスの良いメンバー割合にできるかが毎回ハラハラするので、堂々と「次回ばっちりやります!」と答えづらい気持ちもある。依頼してくれた側にも申し訳ないような、そしてチームのメンバーを信頼していないようで申し訳ないような。なかなか言えない、しんどい気持ちになる。

 

共生社会を目指すって言ってるんだけど、そりゃ一筋縄に行かないわなって、つくづく思う。私が慎重に考えすぎなのか?、毎回毎回なやみます。こういう悩みを超えることが、共生社会をつくっていくことなんだろうか。一人で悶々とするのもしんどいのだ。