伝えるお仕事、ときどきインドネシア語

伝えるお仕事として、広報企画・制作・集計を出版社での経験をもとに手掛けている岡山市在住41歳。就労移行支援事業所で、特に精神障がいをお持ちの方の就職活動と伝える力をつける支援、企業へ障がい者雇用の橋渡しに携わる。大学時代にインドネシア・バリに1年間滞在、ときどきインドネシア語のお手伝いも。ヒトの成長・変化の観察レポートもときどき。

SNS疲れ。距離を置きたくなるタイミングがある。

SNS、特にFacebookに疲れてしまった。おもしろくないし、新規性に欠けて、見ている時間が無駄に思えてしまうのだ。

 

特定のアルゴリズムで上がってくる記事。気が付いたら同じ人ばかり。それほど有益とも感じられない…。

そして、むやみに人と比べてしまったり、変なふうに自己卑下してしまったり。つまらない一喜一憂が多くなってしまっていた。本来はHAPPYなことの共有のはずなんだけれど。おかしいよねえ。

 

他の人の意見・思想に触れて、なるほど!と思うこともあれば、ぐさっと傷つくこともある。ゲーっとがっかりすることもある。そう、マイナスになることが増えてしまっている。これは受け止め側の気持ちの問題なんだろうか?

 

いいね!を付ける機能はおもしろいと思う。気軽に投稿を評価できる、見たよ!というお知らせになる。でも、いつのまにか競う数というのか、ものさしになってしまい、案外気楽でいられなくなる。数になって現れると、どうも気になる。

 

そんなに負担に感じるなら、なるべく見ないことにした。必要な連絡だけ時々チェックすればいい。主体的に利用し、巻き込まれないように身を守ることも重要。

 

インスタの方がずっと気楽に見ていられる。そうやって乗り移っていくんだろうな。

急遽退職した後輩、5年ぶりに思いがけない場所で見かけて声をかけそびれた

以前の職場で一緒だったある後輩を偶然見かけた。

歩き方、背格好からして、本人だった。5年たったので顔つきが少し大人びた、いや精悍になった感じがした。

 

せっかく見かけたのだけれど、声をかけそびれた。

正確に言うと、自転車を停めて立ち止まり、きちんと話しかけたい衝動に駆られていたのだけれど、本人にとっては再開したくない相手かもしれないと恐れたからやめておいた。

もう一つの理由は一緒にいた利用者さんがせっかちな人で、時間通り到着して清掃をスタートする気でいたから、私が寄り道するわけにはいかなかった。

 

同じ時間に同じ場所でまた会えるかどうかはわからないけれど。あの金曜日、偶然に見かけたのはタイムリーだった。

忽然と去ることになり、その後は連絡も取りづらく、消沈しているはずなのに何も声掛けができなかった。時々ふと思い出して気にしていたけれど、いざ見かけて本人だとわかったのに声すらかけられないなんて。

何となく自責の念にかられてしまう。

 

もしかしたら、もう会うことがないかもしれない。また同じタイミングにしたら、すぐ会えるのかもしれないと期待したのか。本人をびっくりさせてでも、声をかけたかったなと今更になって思う。

 

彼が入社して4年目までは一緒だった。よくがんばっていた。慢心してるなと思う場面は私が注意したらよく聞きいれた。すぐ元に戻ったけれど。しっかりやっていたのに、数年後には誰にも埋められないくらい心に穴が開いていたんだと知った。近づいても離れようとし、閉じた状態のままだった。ほとんどの人が彼自身を責めたけれど、私はそれだけじゃないと思った。どうしようもないくらい心に穴を開けさせた世の中(会社環境)だったんじゃないかと思う。いまでもそうだと思う。でも私が主張したところで何かよくなったり、取り戻せたりするものでもない。

 

私もあの環境がおかしいとおもったから、去った。その結果とても元気である。

 

やっぱりあの場所で見かけて、声をかけそびれた。これは数年分の後悔になってしまう。こんな後悔を蓄積するのはいやだから、一瞬の勇気を持つことにしよう。

大きな声を出すのが苦手だけど、声を出す役割を私がしなきゃならないから腹をくくったこと

 日頃省エネで生きているため、声量は小さいほうに分類される。

周りに騒々しさをおしつけないことはメリットだけど、相手に聞こえづらいというご迷惑をおかけすることがよくある。「もう1回言ってください」って言われるのはまだいいけれど、聞き取れないまま聞き返すのもあきらめ、よくわからない雰囲気のままその場が終わることも度々ある。これも申し訳ないことをよく知っている。でもすぐには大きな声にならない。お会いしている方、本当にいつもごめんなさい。

 

話す内容の理解、発する相手に対する信頼関係に自信がないときは、しんぜんと声量は小さくなる。雰囲気がよくない、ネガティブな言葉かけをされるとますます声量は小さくなってしまう。そのときの気持ちの在り方、特にその場で自信をもってできるかどうかに左右されている。

基本的に声量が小さいのは、常日頃からの自信のなさなのかもしれない……と言って反省だけしても、変わらないので改めたい。

 

「声を出す役割」というのは、ブラインドサッカーのガイドのことだ。アイマスクを着けてプレーする選手がシュートを決められるように、ゴール裏から声で導く役のこと。

私のチーム、その役わりを日頃の練習からやって試合に出られる人、よく考えたら私じゃないか!と1年ほど前に気がついて、やることにした。他にいないし、私がやらないと試合にチームが出れないって気が付いたから、腹をくくった。

 

そのときは、「私、大きな声を出すのが苦手なんでやめときます」とはちっとも思わなくて。やってればそのうち出せるようになるだろう、そう思えたから今に至る。

とはいえ、まだ自信がないときはある。いつもいつも右肩上がりにできるように、良い方に向かうとは限らないから、停滞してもいいじゃないかっていうことにしている。

 

つい先日、練習中にラジオパーソナリティーの方が見学に来てくださった。とにかく楽しく取材してくださり、取材される側もハッピーになる。せっかくなので、おしゃべりのプロに発声について質問してみた。「大きな声を出すのが苦手で、でも出さなきゃならなくって、基本的なことと言えばなんでしょう?」と。

「腹から声を出す」に尽きるとのこと。だらだら長く話すより、ハッと息を吐きだすように短く出すと特に大きくなるとか。低い声より、高い声が届きやすいよということまで。

やった、これだけアドバイスをもらえるだけでも、とってもうれしい。質問できたこと自体も自信になって、苦手がちょっと払しょくできた気がする。

 

自信を積み重ねていくこと。妄想だけの自信もいいけど、自分でできた!っていう手ごたえのある経験・自信を増やしていくのが私にはいいみたい。

 

 

やっぱり人に与えられる仕事じゃなくて、自分で作っている仕事が揺るがない。

仕事にはいろんな形態があって、いつもどれがベストだとか、安定しているとか即座に決めることは難しい。

半年余り、コツコツと引き受けて安定してきたつもりの仕事があった。でも年度替わりで終息しそうな雰囲気になってしまった。一担当者からの依頼業務で、その人が異動になると終わり!になってしまいそうなのだ。あーー、残念過ぎる。会社としてそんな体制はどうなのか?と責めるポイントは複数あるのだけれど、それまで信頼して何もしなかった自分の非も大いにあるわけで何とも言い難い。

 

そうこうしていると、人に頼まれて、「あ、あたしはけっこうこういうのできちゃうからいいわよ、引き受けるわー」って感じだと、主体性が欠ける。いざという時にゼロになりかねないなーと思っていたら、そのリスクが近づきてしまった。ひーーー

 

受け身だと困る、損するっていうのは、こういう時のことなんだなー。器用だからいろいろ頼まれてラッキー!っていうのは、ちょっと違うのかも。これも経験値の一つだ!!

確定申告をして、1年間の実績がリアルに数字で表現され、グッときた。

平成30年の確定申告をやっと集約しました。

自分の仕事分を申告するのは2回目、こんなに集約するのが大変なのかとまた実感。日頃から整理しておくこと、欠かせないなと痛感。一気にやろうとしたらそれなりに負荷が大きいことがまたわかった。

 

グッときたのは、1回目より2回目はちゃんと収入が伸びていたこと。

それはやっていてよかった~と嬉しくなる。それだけ協力してくれた人、関わってくれた人がいるっていうこと。もう一人一人に握手してお礼を伝えて回りたい気分。

 

数字になると実績ってリアル。あいまいに「けっこうがんばった」じゃわからない。冷や冷やするんだけど、具体的に分かってほっとする。今回は良い結果、数字が伸びていたからこそ、グッときた。

 

この調子で平成31年もがんばろう。

同じことやってたんじゃ変わらないから、新しいことも取り入れて広げてみよう。

仕事は楽しく、楽しく仕事を!

 

 

仕事の説明をするとき、まだ理解して腑に落ちてないんだなってモロにわかってしまう瞬間。

自分の仕事(本業)の説明で外出。

うーん、まだ思ったように説明できず、もどかしかった。これだけやってんのに、知らない人に紹介するには、まだまだ理解不足なんだな~と実感。

 

こういうのは上司や先輩の言い方をマネすると、一定のことはすぐまねして言えるようになるかもしれない。ある程度は確かにパクりやすい。

でも、質問されたり、ちょっと違うサイドから問われたりすると、応用しづらくって、あーまだまだだ!ということになりうる。

 

つまりは、日ごろから客観的に理解して、説明できる努力をしておくこと。

慣れている利用者、利用者の周囲の支援者、同業者だけに囲まれて過ごしていると、やっぱりわからないことがわからなくなってしまう。厳しくてもたまに外に出てみる、日ごろから職場以外の人の輪に参加して客観性を保つ、ということが欠かせないですね。

 

あとは、質問されたり、うまく言えなかったり、適当にごまかしたりしたことを、早く補っておくことに尽きるかな。

あー、これも学びだ。

 

 

ふわっと無難で当たり障りなく何も伝わらない文、読み手の時間の浪費に過ぎない。

志望動機、仕事や講義の振り返りコメント、目標や抱負。何かしら自分の意思を表示し、考えを提示する機会が生きていると何度となくやってくる。その時、しっかり考えて伝える努力をしているだろうか?「どう言えば、もっと伝わるんだろう?」「こういう表現じゃ薄っぺらいから、なんと言い替えようか、何から言おうか?」なんて悩んでる人は、十分努力をしていると思う。

 

私が言う、「ふわっと無難で当たり障りなく何も伝わらない文」っていうのは、およそこんな感じだ。

 

・ためになる話を聞くことができて、今日はよかったです。

・もっと自分で反省して、貢献しないといけないと思いました。人の役に立ちたいと思います。

・はじめは何もできませんでした。でも、すこしずつ慣れて、少しはよくなりました。

 

厳しいけど、これって内容がないんですよー。

だって、何の話の後にくっつけてもなんとなくおさまる。それは、具体的なことをなーんにも含めていないから。すぐにつっこみたくなるのは……

 

「なんのためになったのよ?ためになる、ためってどういうこと?」

「何を反省したの?」

「貢献するとは、あなたなら何をするとういことなの?」

「少しずつ慣れたのは、いったい何からですか?」

 

何を想定して話しているのか、聞き手には全く分からないから、文としての意味をなしてないんですよね。ふわっと無難、当たり障りない、つまり、何の印象も残らない。それでどうなるんだろう?っていうフックがない。目的語が具体性を欠いていて、何のことやらさっぱりわからない。

 

これほど疑問、不快を与える文は、読み手の時間の浪費に過ぎない。もっと相手を思いやって文を書く、話す努力を惜しまないように!!

 

これは自戒も含めて。