伝えるお仕事、ときどきインドネシア語

伝えるお仕事として、広報企画・制作・集計を出版社での経験をもとに手掛けている岡山市在住41歳。就労移行支援事業所で、特に精神障がいをお持ちの方の就職活動と伝える力をつける支援、企業へ障がい者雇用の橋渡しに携わる。大学時代にインドネシア・バリに1年間滞在、ときどきインドネシア語のお手伝いも。ヒトの成長・変化の観察レポートもときどき。

はなしを深堀りする。引き出せるその人の想いがある。

久しぶりに。いろいろなネタをあたためつつ、春が近づいています。

 

定番のコメントしか言わない人、いますよね。

定型の感想を言えば、その場はやり過ごせるっていう人もいます。

優等生っぽい返答をして、伝えたつもりになれる人も。

 

聞いている側は、それではあまり真意は伝わっていません。

無難にやり過ごそうとしている、ということがキャッチできます(笑)

 

「今日はためになりました。勉強になりました。」

なんなの、「ため」って!?

それで、なにが・どのあたりが「勉強」になったんよ?

って毎回つっこむんだけど、そこで黙る人は多数……

 

つまり、自分がめだたないことを考えて、

本来掘り下げて考えることをしていない、避けている。

そうしちゃうと、自分の意見はないままだし、

考えようともしないでスルーしていっちゃう。

意見もなければ意志も意欲もなくなっていくわけです。

(言い過ぎかもしれないけど、あながち外れていないと思う)

 

聞く側はそれをみこして、深堀りしてやる必要があるんだよね。

つくづくそう思う。

ちょっとした問いかけ、投げかけで十分だと思う。

「あなたの「ためになった」って、どういうことかおしえて」

「いちばん「ためになった」っていうこと、聞かせて」

「「ためになった」は、あなたの言葉でいうと、なに?」

「ためになることがあってよかったね、それで、どんなことに役立つの?」

で、すぐには答えないと思う。

だから、しばらく沈黙をこらえることもコツだと思う。

聞く側があれこれ言いすぎない。ヒントを与えすぎない。

 

一言目が出てきたら、うんうん、とうなづいて聞く姿勢。

そうすれば少しずつその人らしい言葉が、想いが出てくるだろう。

もちろん出づらい人、出てこない日だってある。

 

 

ありきたりのこたえでおしまいにせず、深堀してみる、辛抱して待ってみる、そうすればきっとその人の想いを少しずつ引き出せる。

 

 

 

 

 

 

できない時、人のせいにして抗弁する人。もっともらしい、最もダメな言い訳。

何かができなかったとき、

やろうとしたけど実行に至らなかったとき、

言い訳をしたがる人がいる。

とにかく力強く抗弁してた(笑)

 

何かやって失敗した、

つまり実行してみてダメだった場合は

自分でアクションを起こしているのでまだマシだし、

次元が全然ちがう。

 

やろうとしたのにダメ出しされた。

行こうとしたのに阻止された。

せっかくやる気だったのに阻害された。

不愉快な発言を耳にして、やる気が失せた。

イライラさせられ、気分を害された。

 

うーん、受け身(笑)

そしてどれも何もアクションを起こしていない。

起こす前に、辞めて、不満な状態になっている。

まったく生産的とはいえない。

 

 

できない、やらない、やれない、一歩が踏み出せない、

ぜーんぶ人のせいにしてしまうのは、カンタンだ。

もっともらしい抗弁に聞こえるんだけど、

結局自分が悪くないって言いたいだけ。

つまんないなー。

 

ちょっとしたアクションを起こすかどうか、

一歩先に行けるかどうかは、

自分自身のことにすぎない。

周りの人が何と言おうと、どう見ようと、関係ない。

 

いつまで人のせいにした言い訳をする?

もっともらしい、最もダメな言い訳、

聞かされる側も、時間がもったいないからお断りしたい。

障がい者になったばかりの人、配慮してほしいことについて問われると答えに戸惑うことがある。

生まれたときから、物心つく前から

障がいがあることがわかって生きてきた人もいれば、

事故・病気や後天的な何らかの影響で人生の途中で変化があって

障がい者手帳を取得する人もいる。

 

特にこの後天的な障がい者の場合、

それまでの自分との違い、社会での受け入れられ方の違いなど、

とにかく様々な環境変化を内面的にも社会的にも経験することになる。

乗り超えられるといえばいいのか、

納得いくというのか、

自分なりのポジションや受け答えが定まるまで、

相当な苦労がある。

 

人生のどこかで、

どうしても向き合わないといけないんだろう。

 

先日、障がい者手帳を取得して間もない方が、

就職の面接に行き、配慮してほしいことを質問されていた。

実は障がい者としての社会経験、キャリアがほとんどないので、

なかなかひねり出せず、考え込んでいた。

あれこれすぐ思いつく人は言い出せばいいと思う、

そうでもなければ気が付いたら都度提言してもいいだろう、

特別扱いされたくない人だっているし、

障がいのことや病気のことを安易に知られたくないってこともあるし。

 

障がい者だから配慮しましょう、というのは、

まあ、かつてに比べると進歩した考え方だと思う。

 

障がい者じゃなくても、

職場で困っている人、

ストレスフルな同僚、

気持ちを病んでいる同僚、

いつもダメ出しばかりされている同僚、

隣で今日は元気なさそうな同僚にだって、

同じように気遣って声掛けしようという発想になればいいのにね。

 

 

 

 

 

 

新年の抱負、いつまで持続?イケイケな宣言を信じていいのか?

2019年がスタートしました。

しばらくあいてしまったブログ、リスタートします。

 

新年の抱負、毎年決めて実践・継続していますか?

この「継続」が一番難しいんですよね。

そして抱負そのものを忘れちゃう人もかなりいる。

となると、何なのよ?ってことになる。

 

気持ちを改める、節目になるお正月って、

すごくいいタイミングで、暦ってすばらしいなと思う。

一年を振り返り、新たな気持ちに向かわせてくれる。

 

抱負、目標って、宣言して他の人に公表できればなおいい。

自分だけの宣言じゃ、案外継続しづらい。

継続させるには、何かとプレッシャーも必要だから、

宣言を聞いてくれた人の応援も利用しちゃえばいい。

「新年に●●って言ってたよね、その後どう?」

なんて、ツッコミを入れてもらえたら最高だ。

 

実際には進捗を指摘されるのを嫌がる人も多い。

イケイケな宣言をしておきながら、

早いうちにしり込みしちゃう人もめずらしくない。

イケイケな宣言ほど、信用しづらいなーということも残念ながらある。

 

宣言した抱負は、継続が一番のネック。

それを踏まえて今年も邁進しましょう。

 

私の今年の抱負は、

着実丁寧・整理整頓

 

 

 

 

 

 

 

一対一でできること、グループの輪でできること。

一対一で人と話すことはできるのだけれど、

複数人の輪の中に入るとしどろもどろになっちゃう、

そもそもついていけなくってダメ……

 

複数人のグループになると、コミュニケーションのレベルが少々アップする傾向があります。

そんなこと気にしないで生きている人には何ともないことで、なぜそんなことで悩むのか?引っかかるのか?が理解しがたいかもしれません。

3人以上の複数人でいる時、知らないうちにいろいろな気遣い力を発揮してるんです。

苦手な人は慎重に空気を読んで、考えすぎてしまう…傾向があるように思います。

 

一対一であれば、自分自身のために相手一人がペースを合わせたり、読んだりしてくれて、きちんと対峙できます。で、安心できる要素が大きい。会話のペース配分も、計りやすいわけです。

 

3人以上になると、急に会話のペース・流れが、どこが自分の番で、どこで発言して、どこで終わって…とリズムに乗っかりづらくなるわけです。

で、複数の人が一度に話していると、もう情報の整理が追い付かなくて理解しづらい。そうするとまた話についていけず、置いて行かれてしまう。質問するタイミングも計りづらい。悪循環なわけで、グループは嫌だ!となってしまい、一対一の関係性にもちこうもうとする人も…いや、自然と心地よいからそういうふうな関係性ばかり求めてしまうとか…

 

 

まあいろいろあるわけで、グループの輪で話すということは、かなりいろんな力を発揮しており、求められている。それが難しい・苦手っていう人もいる。どうかそういう人もいるっていうこと、別に子供時代に社会性がなかったとか機会がなかったわけじゃなくてそもそも不得手なこともあるっていうこと、どうかご理解いただきたいのです。

 

入る・入ってない。なんだかモノみたいなんだけど、そうじゃなくて。情報伝達のもどかしさ。

「あの人、なかなか入らないのよ」

「今日のはたぶん入ってないよ」

「3割くらいは入る、残りは紙に書かないと入らない」

 

人間に水を入れて、容量に満たそうとしているかのような表現。

もしくはシュートをうって、ゴールに入るかどうかを話し合ってるような。

そうじゃなくて、情報が納得して理解できる、腑に落ちることを「入る」と表現している。発達障害精神障害、知的障害など、なんらかのコミュニケーションの障がいをお持ちの方とのやり取りの中で、支援員同士が表現する独特な言い回しだ。

 

この業界(福祉)ではごく当たり前なんだろうけど、異業種からやってきた私には新鮮な表現だ。

お話ししていること、お伝えしたい連絡事項などは、ジョウロかコップに満たした「水」で、人のに向かって説明する、つまり「入れる」。

何らかの障害があると、とくとくと吸収されず、数割漏れてしまっている。その人の周りは物理的には水浸しになるんだろうか?シミや濡れた後はのこらないんだけど、お互いに激しい肩透かしにあって転びそうになるくらい「あれ?」っていうことになる。

 

当事者には、「入った?入ってない?」とはあまり尋ねない。支援者側用語っぽい。質問したって「うん」という返事が返ってくる、入っていようと入っていまいと、YESと答えてしまう。だからわざわざ質問しない。その人の反応や表情、その後の行動を見て、入った・入ってないを判断する。

 

自分が伝えたこと、伝えたいことってそのまんま相手に伝わるわけじゃない、そんなはずない。ある程度はその人のフィルターを通しての解釈・理解になって伝わるんだろう。そっくりそのまま伝えようなんて、期待する方がおこがましい。

 

「入る」という時、もともと漏れてしまう分を考慮してないみたいに、すとん!とそのままぜーんぶを指しているみたいで。それをぶっこむのも強硬な荒療治で。

業界用語に対して不慣れなためか、違和感が満載なのだ。

 

情報伝達ってもどかしい。コミュニケーションって難しい。でも、そうであるからこそ人は悩み、時には苦しみ、試行錯誤を繰り返して関係性を深めていくというか、経験値を増していくんだろうな。

 

 

 

片付かない・片付けたくない「家のモノ」がある。

3日坊主を繰り返して、ぼちぼち継続するブログ、少し間をあけてリスタートです。

 

ある人のエピソードの中に、いつも家の中にモノが多くて片付かない、片付けたい家族と片付けたくない家族がいて結局全然片付かなくって嫌だという話を何度か聞いていていた。

 

モノがあふれる現代、お金があれば気軽に手軽にどうでもいいものまで買ってしまう、買い物グセがおさまらなくて家にモノがあふれている。必要かどうかはさておき、買い物することで何かが満たされ、どうしようもなくモノを買ってしまう。

モノを買うという行為そのものの異常性、過度な傾向はいくつか聞いたことがあった。ついついその傾向なのかなと想定していたら、違った!ということがあった。

 

ご本人のモノというわけではなく、片付かないモノの対象は「亡くなった父の遺品」だったのです。片付けたくないのはその母が、判断がつかない・つけられなくて、もう10年余りそのままなのだという。10年もたてば、もういいんじゃないの?と区切りをつけられそうなものの、いやいやその判断や踏ん切りはかなり難しいんだろうなということが伝わってきました。

 

踏ん切りがつかない母に対し、娘がいつも気にかけており、「モノが片付かない」としばしばはなしていたのです。もう整理をしてもいいのでは、処分してもいいのでは?でも配偶者である母にはどうにもこうにも判断がつかない、捨てたくない、そのままであってほしい、手を付けてはいけない気がする、まだ帰ってくるのではないか?、そのまま一緒にいる感覚を家の中に残しておきたい、どうにもできない、考えたくなくてそのままにしている、ああもうよくわからないから誰に何と言われても面倒くさいからそのまま……

きっといろいろな理由があるのだろうなと想像しました。

娘は10年も過ぎて、そのままにしているなんて、整理できない母親にいら立っているのでしょう。なくすことで気持ちに区切りがつく、物理的に整理できる、ずっと悩んでることをリセットできる、いつも同じ悩みを聞かなくて済むなど、きっと希望があるのでしょう。

この娘さんに関わって家族の話を聞く限り、家族のことをあれこれと重く思いやるよりも、自分自身が自立して前に進めることをとにかく優先してほしい。実行して前に進んでいけば、家の中もきっと環境が変わり、好転するんじゃないかと期待している。そう、他人に期待するよりもやっぱり本人が動いて波を起こし、流れを作り、変えていくことがなによりも根底のエネルギーになる。

 

さあ、少しずつでいいから、はじめよう!チャレンジしよう!

失敗なんていくらしてもいいんだから。